《感じ合い》
《感じ合い》
定義
曰く言い難しであるが、この《肉の塊》からの、その世界への、《感じ合い》へのクオリアはある。
《他者》と正面から向かい合いつつあるときに、《私》の背後に《感じ合いつつあるモノ》を感じる。それは《魂》であると感じる。
- 《感じ合いつつあるモノ》は《群生相》における《我》である。
- 「《私》が《他者》と正面から向かい合いつつあるときに《私》の背後に感じるモノ」を《感じ合いつつあるモノ》と呼ぶ。
《感じつつあるモノ》と『同類』のモノへの《感じつつあること》。である、という《実感》を伴う《感じつつあること》。
- 間接的自己言及感覚。
区別
《感じ合い》とコネクション
- ブラウザ⇔Webサーバ間のコネクション。双方で同一の connection_id を共有することによって、仮想的にコネクションがつながっているように扱う。
- 物理的には、ブラウザからサーバに送信する、サーバからブラウザに送信する、という断続的かつ一方的な情報伝達の群れである。それを、サーバ、ブラウザが『同一のコネクションである』として扱う、ということに過ぎない。
- ブラウザが connection_id を保持している間、ブラウザはコネクションが継続していると信じている。しかし、誤信である場合もある。サーバが廃棄してしまっていたり、通信経路にトラブルが在った場合には、実際にはコネクションは切れているということがあり得る。
- 《他者》との《感じ合い》が在る、という《思いこみ》も、connection_idを保持しているという《思いこみ》に等しい。だいたいにおいて、実際にも《感じ合い》は存在しているのであろうが、錯誤である場合もある。まあ、それは、例外事象ということにしてもよい。
- なりすまし、による、錯誤もある。別のサーバが、エミュレートしているだけかもしれない。それでも信じてしまうとするなら、アニメの主人公への共感を、《感じ合い》と勘違いすることにつながる。
《感じ合い》と《息しつつあるモノ》
- 《感じ合いつつあるモノ》は《息しつつあるモノ》であるような気がする。《息しつつあるモノ》は、《他者》が存在するときには、《感じ合いつつあるモノ》である。
- 《息しつつあるモノ》よりちょっとしたの下丹田のあたりに《感じ合いつつあるモノ》がある。このような言い方って、カルトっぽいな。《私》はそこら辺に感じる、ということでしかないのだが、これを図にしたりすると、おどろおどろしき人体〜精神図になってしまう。いやだな。《体内感覚世界》においてそこら辺に感じるということと、そこに在るということとは別の話だ。
《感じ合い》と《感じ合いつつあるモノ》
- 《感じ合い》というモノはない。《感じ合いつつあるモノ》はある。
- 《感じ合い》はこの《肉の塊》の状態である、か? 《感じ合いつつある肉の塊》。
- 《感じ合いつつあるモノ》は「背後に感じるモノ」であるなら、《身体》内部のモノである。《知りつつあるモノ》や《背後者》が《身体》内部のモノであるのと同様。主観的体験におけるモノ。
- 《感じ合いつつある肉の塊》は、全体としての《肉の塊》の特定の状態を意味する。そのような状態の《肉の塊》を《感じ合いつつある肉の塊》という。
- 《群生相》における《肉の塊》を《感じ合いつつある肉の塊》という。
- 《群生相》における《我》を《感じ合いつつあるモノ》と言う。
- 現象をモノから分離して考察するという方法。に抵抗がある。《感じ合い》は現象である。パターンである。述語である(実体、基体ではない)。
- 《他者》と向かい合う《私》の背後者の《感じ合いつつあるモノ》は一瞬しか持続できない。《感じ合い》は《他者》が、《感じ合いつつあるモノ》と同類であるとの《実感》を伴い場合においてのみ存在する。《他者》かいなくなるか、《他者》への『同類者意識』がなくなれば《感じ合い》は消滅する。《捉えなおし》によって、『同類者意識』は消滅する。しかしそれでも、『同類者意識』が持続している間は、《感じ合い》も持続することができる。その持続の間に、《感じ合い》の背後者、《私》の《感じ合いつつあるモノ》と《他者の感じ合いつつあるモノ》を実感することができるだろう、か? ○:。×:。
《感じ合い》と《実感》
- 《感じ合い》は《実感》である。
- 《感じ合い》は、《他者》が存在するときにのみ存在する。《他者》が存在しないときには、《感じ合い》への《実感》も存在しない。
《感じ合い》とコトバ
- コトバで語ることはできない、できるか? ○:。×:コトバで伝達可能な事象は、聞き手にとって既知であることだけである。聞き手が《思い描き》可能な事象だけである。
《共感》と《感じ合い》
- 《感じ合いつつあるモノ》によって《感じ合われつつあるモノ》は、《感じ合いつつあるモノ》であるか? ○:。×:動画に対して《感じ合いつつあるモノ》の《感じ合われつつあるモノ》は動画であるから、動画は《感じ合いつつあるモノ》ではない。動画の主人公は存在するか? 動画の主人公は《私》にたいして《感じ合いつつあるモノ》であるか?
- 共鳴現象で、相手がエミュレータであるときに、共鳴と呼ぶのか?
- 赤ん坊は、ビデオに対して、すぐに反応しなくなる。実物であれば反応が継続する。赤ん坊は本物であるかどうかを見抜く力があるらしい。『裸の王様』の子供は本物でないことを見抜く、というより、『裸の王様』の大人たちは、何故に《騙された》のか?。大人たちは、自分自身を騙した、というべきか?。信じる、ということは、自分自身を騙す、ということか? 『心地よいウソ』で、自分自身を騙す。
- 《共感》は、相手が《感じ合いつつあるモノ》でなくても可能であるが、《感じ合い》は、相手が《感じ合いつつあるモノ》である場合にかぎって存在する。共感は思い描きへの共感でありうるが、《感じ合い》は《思い描き》への《感じ合い》は存在しない。《共感》は、《私》からの一方的なモノでありうるが、《感じ合い》は双方的である場合に限って存在する。
- 読書による追体験、という言葉がある。《思い描き》への《共感》に、実際のモノたちとの間の《感じ合い》よりも、リアリティを感じるようになった一群の人びとがいる。
新生児模倣と《感じ合い》
- 『新・心理学の基礎知識』p.328、p.237。イメージ能力を媒介としない。「共鳴動作」。
- http://www.benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2006/06/02ken_01.html
- 赤ちゃんを観察しているうちに、チンパンジーにも新生児微笑(※2)や新生児模倣(※3)があることを発見しました。寝ているときにニッと微笑(ほほえ)んだり、大人の表情を真似(まね)しようとしたりするのです。新生児微笑や新生児模倣はヒトの赤ちゃんの特徴とされてきましたが、チンパンジーにもその能力があることがわかりました。
- ※3 新生児模倣 大人が舌を出したり、口をすぼめたりすると、赤ちゃんも真似をしようとする。これを新生児模倣という。新生児模倣も新生児微笑も、これまでヒトの赤ちゃん特有の行動とされてきた。
《感じ合い》と2次元世界。
- 米国 「日本は2Dアニメの国、脅威ではない。2Dは3Dに劣る。」 [痛いニュース(ノ∀`)] http://www.asyura2.com/07/bd49/msg/278.html 投稿者 white 日時 2007 年 5 月 30 日 19:41:55: QYBiAyr6jr5Ac
- 3Dは、獲物に対する《まなざし》の世界、
- 2Dは、仲間に対する《感じ合い》の世界。皮膚の2次元の世界。
《感じ合い》と《肉の塊》
- 《感じ合い》は《肉の塊》の作用である。
- このスネは、他の《肉の塊》のスネへの《感じ合い》を持つ。車いすにも《感じ合い》を持つ。
- この目は、盲人の白い杖にも《感じ合い》を持つ。
- 機能、目的、存在理由。存在理由は、そのモノの周りのモノからのそのモノへの価値評価への理由である。モノは自らの存在価値を知らない。他者からの自らへの評価への見通しが、自らへの存在価値のクオリアである
- 掌は、扉に《感じ合い》を持つ。語源??
《感じ合い》と《鏡像クオリア》
- 《感じ合い》ではなく、一方的な《鏡像クオリア》なのではないか? ミラーニューロンの働きらしいし・・。
《感じ合い》と焦燥感
- 辺際の視点若しくは辺際の思考 http://www.asyura2.com/0510/idletalk16/msg/419.html 投稿者 如往 日時 2005 年 12 月 18 日 11:43:28:
- 時に私は彼岸からの視点に立つことがありますが、決まって視界に入った人たちにたいして何も働き掛けることができない自分を見出します。
- 《感じ合い》は焦燥感を生むモノである。《感じ合い》と、『彼らをどうにかしたい』という《求める思いこみ》とが焦燥感を生む。
- 『彼らをどうにかしたい』というのは傲慢な《思いこみ》である。善い《思いこみ》ではあろう。しかし、とりあえず、捨てる。捨てて見通す。感じ合う。
- コトバで彼を導くことはできない。彼を導くことができるのは、彼の「気づき」だけだ。ブッダは「目のあるものは見よ」という態度だったという。
- http://tsukuba.jp-city.net/column/blog_goodwill/index.php?itemid=42
- 聖書に「目のあるものは見よ、耳の有るものは聞け」というような言葉がかかれていますが ・・・
- http://blog.goo.ne.jp/nagashima21/e/25a484955d1ebd63809231d45cd489ea
- 「聞く耳のある者は聴け、眼のある者は見よ」= 救世主イエス =
- http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
- それらの経はしばしば、つぎのようなブッダの教えに感動する聞き手の言葉で終わっています。
- 素晴らしいかな大徳、素晴らしいかな大徳、たとえば、倒れたるものを起こすがことく、覆われたるを現すがごとく、迷えるものに道を示すがごとく、あるいは、暗闇の中に燈火をもたらして、「眼あるものは見よ」というがごとく、世尊はさまざまな方便をもって法を示したもうた。
- (増谷文雄、『新しい仏教のこころ』、講談社、71頁)
- この定型句によれば、ブッダの教えは、それを聞いた人々にとって、「眼あるものは見よ」というがごときだったと言うのです。それがブッダの教えを聞いた人々の印象だったのです。つまり、ブッダは、人知でははかりえない神秘的なことを権威的態度で「信じよ」と説いたのではなく、ここに来て自分の目で確かめよ、と眼前で示すがごとく、はっきりと知ることのできるものであった、と言うのです。
検索
ゴミ箱 - [#『仁』というのは、《他者》が《私》、各人にとっての絶対者であることを承認して、彼らに感じ合う、ということだろう。100億個の絶対者への《感じ合い》が『仁』だろう。]
《群生相》 - [#あの《肉の塊》からの鏡像感覚への《感じ合い》への《見通し》。] 《群生相》 - [#見通しの層と感じあいの層。層を区切る壁。人々の固定観念。]
『生存目的』 - [#例えば『一切への《感じ合い》』は『なすべきこと』であり、『生存目的』である、か?]
《たけ(tk)の思いこみ》 - [#この《肉の塊》は《他者のコトバ》を受け取る。この《肉の塊》は、この《肉の塊》のまわりのモノたちへの《感じ合い》を持つ。この《肉の塊》は、《他者のコトバ》と《感じ合い》の、二通りの《繋がり》を持つ。]
《肉の塊》 - [#《感じ合い》への欲求。]
『一切』 - [#ナベコの2は『一切』への《感じ合い》である。イカイ。]
《ブッダの「一切」》 - [《ブッダの「一切」》と《感じ合い》]
欲求分類リスト - [《感じ合い》への欲求。]
『仁』 - [《他者》が、《他者》にとって絶対者であることを承認して、彼らへの《感じ合い》を持つこと、を『仁』ということにしよう。]
『道徳感情論』 - [#《他者》への共感のクオリアは在る。《感じ合い》、《感じ合いつつあるモノ》。]
《共振しつつあるモノ》 - [《共振しつつあるモノ》と《共感しつつあるモノ》《感じ合いつつあるモノ》]
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References:[《感じ合いつつあるモノ》] [《息しつつあるモノの群れ》]