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《我》

キーワード《我》

定義

《我》とは、『我』という《思いこみ》を発しつつあるモノを指し示す《思いこみ》(である『我』という《思いこみ》)が指し示すモノである。

  1. 「我」は、「我」というコトバを発しつつあるモノを指し示すコトバである。
  2. 《我》とは「我」というコトバが指し示すモノである。
  3. 《我》とは「我」というコトバを発しつつあるモノである。か?
  4. 《我》とは、「我」というコトバを発しつつあるモノを指し示すコトバが指し示すモノである。か?
  5. 「我」というコトバを媒介としなければ、《我》は存在しない、か?
  6. 《我》とは、『我』という《思いこみ》を発しつつあるモノを指し示す《思いこみ》(である『我』という《思いこみ》)が指し示すモノである。か?
  7. 『我』という《思いこみ》がなければ、《我》は存在しない、か?
  8. 《我》は特定のモノではない。『我』という《思いこみ》を発しつつあるモノを指し示す《思いこみ》が指し示すモノである。
  9. 『我』は自己言及《思いこみ》である。
  10. 《我》自己言及モノである。《我》自己言及しつつあるモノである。
  11. 《我》自己言及しつつあるモノである、か?
  12. 自己言及していないときにも《我》はあるのではないか?
  13. ロボットが、ロボット自身を指し示す情報を処理するとき、その情報『我』情報と呼ぶ。

《極座標の原点》《我》もしくは《視点》と呼ぶ。

  1. 《極座標の原点》《自己言及しつつあるモノ》か?
  2. 《極座標の原点》《極座標の原点》に言及しつつあるときには、《自己言及しつつあるモノ》である。《極座標の原点》《極座標の原点》に言及しつつあるときには、《極座標の原点》《我》である。
  3. 《極座標の原点》が、自己言及していないときには、《極座標の原点》《我》ではない。
  4. 「あの《極座標の原点》」は《我》であり得るか? 「あの《極座標の原点》」というのは、「この《極座標の原点》」ではないモノという意味。「あの《極座標の原点》」に言及しているのは「この《極座標の原点》」である。従って、「あの《極座標の原点》」は《我》ではない。
  5. 「あの《極座標の原点》」が「あの《極座標の原点》」に言及しつつあるときには、「あの《極座標の原点》」は「あの《我》」である。「あの《我》」は「この《我》」ではない。「あの《我》」は《我》であり得るか?
  6. 「あの《我》」も《我》であり得るという《視点》を、《同質者公理》と呼ぶ。
  7. 「あの《我》」は《我》ではあり得ないという《視点》を、《特別者公理》と呼ぶ。

《我》は「我」という自己言及的なコトバが指し示すモノである。

  1. 「我」というコトバは、「我」というコトバを発するモノが、《「我」というコトバを発するモノ》自身を指し示す時に使われるコトバである。
  2. 《「我」というコトバを発するモノ》がどのような状態にあるかによって、「我」の指し示すモノの様相が変わることになる。
  3. 「我」についての数学的モデル、として、「自己言及」というモノを考察すべきである。「自己言及」という数学的モデル。
  4. 自己言及」という数学的モデルは、「数学的モデル」という概念自体を破壊してしまう。
  5. 『我』という《思いこみ》入り込みつつあるモノが、《『我』という《思いこみ》入り込みつつあるモノ》自身を指し示す《思いこみ》である。
  6. もし『我』という《思いこみ》と、《『我』という《思いこみ》入り込みつつあるモノ》とが同じであるなら、自己言及のパラドックスを生じる。しかし、『我』という《思いこみ》と、《『我』という《思いこみ》入り込みつつあるモノ》というモノとは、同一ではありえない、と理解すべきであろう。《思いこみ》モノを指し示すことができるが、モノ《思いこみ》とは異なるモノである。《思いこみ》モノとの離隔性。
    1. 《コトバの世界》の論理では、「モノへの《思いこみ》と、指し示されたモノとが同じ」である。
    2. 《モノの世界》の論理では、「モノへの《思いこみ》と、指し示されたモノとが同じ」ではありえない。
  7. 数学的モデルとしての『我』とは何か? 『知りつつあるモノが、そのモノ自身を知りつつある状態』を意味するはずである。
  8. 『知りつつあるモノが、そのモノ自身を知りつつある状態』は無限ループか? 無限ループはコンピュータなどでは普通の現象である。スピーカのハウリングも無限ループの現象である。
  9. モノが何かを知る』とか『モノが何かを指し示す』とか『モノが何らかの《思いこみ》を持つ』というコトバは、数学的モデルでありうるか? 《アニミズム》の数学的モデル。
  10. モノへの情報のインプット、モノの内部での情報の保存(記憶)というのはコンピュータにとっては普通のことである。コンピュータが何かを指し示す=アウトプットする=というのも普通のことである。

《絶対者公理》における、世界の中心、座標軸の原点を《我》という。

  1. 《相対者公理》における、《このヒト》を《私》という。

認識された世界の《認識限界》の面の上の、こちら側の特異点を《我》という。《我》は面として現れる《認識限界》の特異な部分である。《我》の特異性は認識始点であることと、自己言及存在であることである。

「我」というコトバは使わないほうがよい。《生きつつあるモノ》というコトバのほうがよい。

「我」は《生きつつあるモノ》がそれ自身を指し示すときに使うコトバである。《我》《生きつつあるモノ》がそれ自体を実感しているときの、その実感である。

《我》《諸々のxxしつつあるモノ》の総体としての統合体として想定されたモノである。《我》《思いこみ》である。《思いこみ》であるが、『《諸々のxxしつつあるモノ》の総体としての統合体として想定されたモノ』が存在することは、経験的に言って、確実である。しかし、それ自体を直接することはできないし、《我》の全体を見通すことも困難である。

《我》《諸々のxxしつつあるモノ》の総体背後にあって、それらの統合体として想定されたモノである。《我》《思いこみ》である。《思いこみ》であるが、『《諸々のxxしつつあるモノ》の総体の背後にあって、それらの統合体として想定されたモノ』が存在することは、経験的に言って、確実である。しかし、それ自体を直接することはできないし、《我》の全体を見通すことも困難である。

《我》は持続である。

『我』は自己言及的な概念であり、自己言及的な概念は破綻する。『我』は概念としては存在しえない。「我」というコトバは使わないほうがよい。

* 無限ループモノである。

『我』は自己言及的な《思いこみつつあるモノ》がそれ自身を指し示すコトバである。発語者相対的な指示代名詞である。

《我》自己言及的な《思いこみ》である。「自己言及的な《思いこみ》」は《モノの世界》の中に存在するモノである。

《我》自己言及的な《思いこみ》循環というモノである。

『我』は自己言及的な《思いこみ》循環というモノを指し示すイメージという《思いこみ》である。循環を指し示す《思いこみ》である。

『我』は《思いこみつつあるモノ》自体を指し示す《思いこみ》である。

《思いこみ》には《求める思いこみ》《知った思いこみ》とがある。それゆえに、自己言及的な《思いこみ》には次の4種類がある。

  1. 《求める思いこみ》《求める思いこみ》・・『xxしたいと思いたい』という《思いこみ》
  2. 《求める思いこみ》《知った思いこみ》・・『xxしたいと知っている』という《思いこみ》
  3. 《知った思いこみ》《知った思いこみ》・・『xxを知っている』という《思いこみ》
  4. 《知った思いこみ》《求める思いこみ》・・『知りたい』という《思いこみ》

区別

《息しつつある背後者回路》《我》

  1. 《息しつつある背後者回路》への《見通し》は、《我》を構造的なモノとして把握することに繋がる。《息しつつある背後者回路》《視点》では、《我》は、「AならばB」の構造的なモノである。
  2. 《我》《極座標の原点》である。原点は、点であって、構造的なモノであることはできない。
  3. 《我》は点であるが、点の背後には構造的な《背後者》が在る。
  4. 《息しつつあるモノ》《極座標の原点》とする《複素数の時空》《背後者》の回路、には、《息しつつあるモノ》という点の《背後者》の回路と、それを《知りつつあるモノ》という点の《背後者》の回路と、《複素数の時空》の《認識限界》の向こう側の《背後者》の回路とがある。《複素数の時空》《背後者回路》もある。
  5. 《背後者回路》《自己言及しつつあるモノ》であり得るか?
  6. あるモノ《自己言及しつつあるモノ》であり得るか、なんて、ドーデモイーことではないか。
  7. 少なくとも、《今・ここの・このモノ》、この《肉の塊》《自己言及しつつあるモノ》である。この《肉の塊》は、《背後者回路》をもった、構造的なモノである。自己言及回路を持ったモノである。自己言及回路は、《知りつつあるモノ》にとっては、その一部が背後に隠された回路である。

モノ《我》(B)

  1. すべてのモノは、そのモノにとって《我》である。という《視点》《アニミズム》と呼ぶ。《同質者公理》を普遍化すると《アニミズム》になる。
  2. 素粒子は《自己言及しつつあるモノ》であり得るか? そんなの分からぬよ。他のヒトであっても分からぬ。他のヒトに聞いても、そのヒトが本当のことを言っているかを確認できないから、確認できない。他のヒトやロボットが「我」というコトバを発したとしても、そのヒトやロボットが《自己言及しつつあるモノ》であるかどうかを確認することはできない。素粒子に聞いても「《我》あり」とは答えない。が答えないからといって、「素粒子に《我》はない」と言うことはできない。在ると思えば在る、無いと思えば無い。在ると思う立場を《アニミズム》という。
  3. 素粒子は他の素粒子からの情報を処理している、といっても良いだろう。とするなら、素粒子は自分自身からの情報も処理している、と言ってもよいのではなかろうか。

モノ《我》(A)

  1. 「あのモノ」は、「この《我》」にとっては、「この《我》」ではない。

モノ《我》(C)

  1. この《我》は、あのモノにとっては、《我》ではない。

《我》《今・ここの・このモノ》

  1. 「我」というコトバは、《今・ここの・このモノ》を指し示すコトバか?
  2. 《今・ここの・このモノ》が、《今・ここの・このモノ》自身を指し示したいときに「我」というコトバ《今・ここの・このモノ》を指し示すことができる。か?
  3. 《今・ここの・このモノ》が、《今・ここの・このモノ》自身を指し示しつつあるときには、《今・ここの・このモノ》《我》である。
  4. 《今・ここの・このモノ》が、自己言及しつつあるときには、《今・ここの・このモノ》《我》である。
  5. 《今・ここの・このモノ》が、自己言及していないときには、《今・ここの・このモノ》《我》ではない。
  6. あるモノ《我》であるかどうかなんて、ドーデモイーことなのだよ。

《我》とアートマン

  1. http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_1.html
  2. アートマンは死なない、という考え方。
  3. 《我》を、《知りつつあるモノ》《背後者》《宇宙史》である、と考えるなら、《我》は死なない。

《我》《肉の塊》

  1. 《我》《肉の塊》の中の情報循環の特異点である。循環の不動点である。《肉の塊》の中の情報循環の特異点は、《肉の塊》の中に存在する。
  2. 《我》情報循環の特異点ではない。《体内感覚世界》から《背後者》《知った思いこみ》噴出する点である。

《我》《複素数の時空》

  1. 《複素数の時空》《我》《知りつつあるモノの背後者》世界《モノの世界》とが統合された世界

システム論《我》』と《我》

  1. 《我》システム論の《コトバ》で定義するなら、「あるシステムの入力装置において、その入力装置自体(もしくはそのシステム自体、またはそれらの状態)を情報として入力しつつあるときの、入力しつつある装置(主我)または入力されつつあるその情報(客我)を《我》という」となるだろう。
  2. フィードバックシステムと《我》。エアコンは、外部の温度と排気温度を世界として認識する。エアコンの世界は外部温度と排気温度で構成される。排気温度はエアコンの《我》情報である。
  3. 《我》は『システム論《我》』の概念に該当するだろう。他のヒト《我》もたぶん該当するだろう。エアコンに《我》があるか? たけ(tk)は知りません。「エアコンに《我》がある」という説明方法も可能だし、「エアコンに《我》はない」という説明方法も可能だろう。しかし少なくとも「エアコンに『システム論《我》』はある」という結論になるだろう。
  4. しかし、エアコンは『世界表象』は持っていないだろう、?。エアコンが持っている『世界表象』は外部温度と排気温度で構成される表象である。とすれば、エアコンも『世界表象』を持っている、か? エアコンには記憶がない、かもしれないな。
  5. システムがモノを認識する、とはどういうことか? 感覚情報(センサーからの情報)を輪郭で切り取って、輪郭を再構成して、名前を付けて、報告できれば、モノを認識する、ということになるか? 感覚情報からモノを抽出すること、ができれば、モノを認識した、ということになるか? 生体認証システムが、誰の静脈パターンであるか/誰の顔であるかを識別できれば、モノを認識したということになるか?
  6. コクマルガラスが黒いこうもり傘をさげたローレンツの友人を、『敵』として認識したとき、彼らの認識方法は、生体認証システムよりも原始的な認識方法だっただろう。
  7. 生き物にとって、《我》の認識は必要なのか? チンパンジーは《我》を認識する能力があるらしい、が、すぐに興味を無くしてしまうらしい。《我》を認識しても、意味がないのである。なぜ、彼らには意味がなくて、ヒトには意味があるのか? ヒトにとって、《我》の認識は意味があるのか? ヒトは「我」というコトバを使って会話する。コトバにはそれが指し示すモノがあるはずだ、と思うなら、「我」というコトバが指し示すモノ《我》があるはずだ、ということにはなる。しかし、「我」というコトバが指し示すモノ《我》を知らなくても会話は可能だ。ヒト《我》を知らなくても問題は生じない、従って、ヒト《我》を知る必要があるわけではない。
  8. 一部のヒト《我》を知ろうとする。その理由のほうが特殊な事情に基づくというべきだろう。何故知ろうとするのか? おそらく、彼は『世界を知りたい』という《求める思いこみ》に駆動されているのだ。《我》は『世界』の一部である。従って『世界を知る』為には《我》も知らなければならない、ということになる。『知ること』を《求める思いこみ》が、手段から目的に転じた結果として、一部のヒト《我》を知ろうとするようになる。

『生物学的我』と《我》

  1. 《我》をシミュレートできるか? コンピュータの中に《我》を作り出すことができるか? って、やりたくないかも・・。
  2. 《我》情報伝達装置である。
  3. 客観的に観察可能な、生物学的現象として定義された『我』というのは《我》ではない。
  4. 『我』というコトバの意味は、そのコトバを語る主体という意味である。
  5. 或るモノが、そのモノ自身を『我』として認識するか、というのが問題となるが、「或るモノが、そのモノ自身を『我』として認識する」ということをどうやって観察するかが問題となる。《他者》が「そのモノ自身を『我』として認識する」か、ということも確認できない。
  6. 《他者》が、そのモノ自身を『我』として認識する」ということは確認できない、か? 《同質者公理》という《思いこみ》から確信しても意味がない、検証とはいえない。しかし・・検証というのは公理に影響されるものではないか? 検証というのは『xxである』という《思いこみ》を検証するモノであろう。その《思いこみ》に矛盾しない現象が確認できれば、検証できた、と判断する。ホッパーの「反証可能性」といっても、どうなんだろう? 「水は加熱すれば水蒸気になる」といったコトでも、拒否するヒトはあり得るだろう。蒸留器で実験してみせても、「水は加熱されて、容器をすり抜けて祖先の国に行った。冷やされて祖先の国から容器をすり抜けて戻ってきた」と信じて観察すれば、そのようにも説明できる。その説明でも矛盾しないから、検証されたことになってしまう。
  7. 蒸留器の実験を見せても、《混濁しつつあるモノ》は何も感じない。『それはそれ。何か意味があるのか? 《私》にとっては何も意味がない』。『そもそも蒸留器は存在する、と証明できないではないか』。何故に、科学者は、『蒸留器が存在する』『実験は存在する』と軽信するのか? 蒸留器というのは道具である。道具の中での現象が道具の外でも妥当する、というのは、信じることができるのか? ヒトを水の中に30分浸けておけば動かなくなる、という実験とどう違うのか? 意味があるのか? コトバで語られた実験は、コトバでしかない。コトバモノを、本当に指し示しているのか? コトバ目的をもってモノの一面を切り取った《思いこみ》である。《思いこみ》モノを理解することはできない。
  8. 「水は加熱すれば水蒸気になる」と習った、信じた。しかし、疑わしい。1%の疑いが残る。《思いこみ》道具であり、便利な道具である。役に立つ道具である。疑っていると《思いこみ》価値がなくなる。《思いこみ》価値を高めるために、疑うことを止めるべきなのか? 《思いこみ》価値は思いこむこと、《思いこみ》の中に入り込むこと、によって生まれる。疑うことをやめても《思いこみ》価値は復活しない。
  9. 道具として《思いこみ》を使うこと。

《我》《生きつつあるモノ》

  1. 《生きつつあるモノ》《息しつつあるモノ》によって生かされつつあるモノである。また《諸々のxxしつつあるモノ》の総体である。ということは同じモノだ。

《我》《知りつつあるモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》《我》《諸々のxxしつつあるモノ》のうちの一つである。
  2. 《我》を知るのは《知りつつあるモノ》である。

システム論的な《我》

  1. インプット処理のサブシステムと、アウトプット処理のサブシステムとの境界面を《我》という、という定義も可能。(モノ的な《我》
  2. インプット処理のサブシステムと、アウトプット処理のサブシステムとの中間にあるサブシステムを《我》という、という定義も可能。(生き物的な《我》
  3. アニミズムモノの中に《我》を認める説明方法(ロゴス)。

《私》が「我」というコトバによって指し示すモノ、と《他者》が「我」というコトバで指し示すモノとは、もちろん別のモノである。「我」は発語者相対的な概念である。指示代名詞であって、概念ではない?

普遍的概念としての『我』は、《思いこみ》世界の中においてのみ存在するモノである。《モノの世界》には存在しないモノである。(普遍的概念としての『xx』は、すべからく、《モノの世界》には存在しない)。

《私》《他者》との相対におけるモノである。《同質者公理》によれば、自己言及的な《思いこみ》《私》にもあるし《他者》にもある。

《思いこみ》としての『我』と、モノとしての《我》《ヒトの個体》の内部の《思いこみ》としての『我』は、《ヒトの個体》の内部のモノである。《思いこみ》《ヒトの個体》の内部のモノである。 自己言及的な《思いこみ》は、《ヒトの個体》の内部のモノである。 自己言及的な《思いこみ》循環は、《ヒトの個体》に内部のモノである。 《思いこみつつあるモノ》は、《ヒトの個体》の内部のモノである。 『《思いこみつつあるモノ》自身を指し示す《思いこみ》』は《ヒトの個体》の内部のモノである。 モノは、認識されることにより、《思いこみ》になる。 《思いこみ》は存在するが故にモノである。

Last modified:2007/01/14 01:06:20
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References:[《ヘラクレイトスの「ロゴス」》] [『よい』『わるい』]