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《モノの世界》を《コトバ》で説明することと自己言及

おまけ《モノの世界》を《コトバ》で説明することと自己言及

復刻版: http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/kakolog2/past-ronriuchuu.htm

http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?mode=all&loadno=4494&resp=1&page=

* 《コトバ》の世界《コトバの世界》モノ世界《モノの世界》

04:宮本浩樹 投稿日:2/18-14:47

>ゲーデルが不完全性定理を証明するまで。

ゲーデルが、自己言及に起因するパラドックスを退治した。なんて言うと彼に失礼だろう。

彼が証明したのは、「矛盾無く全ての真なる命題を証明できるシステムは構築できない。」という恐るべき「命題」であり、それは数学において最も議論の余地のない領域で証明された「定理」なのである。

完全なシステムはあり得ない。

  1. 「人間は計算可能なアルゴリズムに還元できない。」
  2. 「言葉の完全な意味でのランダム性は存在しない。」

不完全性定理の拡張はこのようなものである。

・・

05:宮本浩樹 投稿日:2/19-14:27

>「シュレディンガーの猫」

が、一瞬でも生死の重ね合わせ状態をとらない事は議論の余地がないが、「観測者問題」の観測者は人間じゃなきゃいけないのか? 猫は知性を持たないから資格がないのか?

それとも観測とは観測器械が測定した時点に行われるものなのか?

確率が現実化し、波動が粒子として現れるためになにかが関与しているのか?

ペンローズの説く、複素空間での事象の地平線を現す逆円錐をわかりやすく解説できるようになったらやります。

彼は最近の著書「心の影」で、量子力学的現象が「意識」を発生させるメカニズムの解明を試みています。

我々が、何を知りうるのか。

明らかになればいいんですが・・・。

06:たけ(tk) 投稿日:2/20-15:52

「観測者問題」:

人は何故に、《他者》を観察者として認めることができるのか?

《他者》《私》と同じ観察者でありうるというのは《思いこみ》でしかないではないか。

・・この《思いこみ》《同質者公理》と呼ぶ。

07:たけ(tk) 投稿日:2/20-16:01

>ゲーデルが、自己言及に起因するパラドックスを退治した。

ゲーデルは自己言及のパラドックスを、ヒルベルトの公理主義に持ち込んだだけでしょ? 自己言及のパラドックスが数学者の美しい夢を打ち砕いたというだけの話。

自己言及は、《コトバの世界》《モノの世界》に浮かんでいる《思いこみ》に過ぎないことを示している。

《コトバの世界》において自己に言及するということは、《モノの世界》に浮かんでいるモノとしての《コトバの世界》に言及するということを意味する。

それゆえに、自己言及は、《コトバの世界》から《モノの世界》を通過して自らを言及するということを意味する。自己言及《コトバの世界》からの脱出を含んでいる ために、《コトバの世界》の中での完全性を害してしまうのである。

08:宮本浩樹 投稿日:2/20-16:11

たけ(tk)哲学、全開でいかれるならしばらく静観させてもらいます。

・・

09:たけ(tk) 投稿日:2/20-16:37

静観されちゃうと、話が進まない。

自己言及ネタは、あと二つ書き溜めてあるけど、どうしよーかなー。

http://wiki.fdiary.net/moikomi/?%BC%AB%B8%CA%B8%C0%B5%DA

10:宮本浩樹 投稿日:2/20-17:01

では、反論をば・・・

「観測者問題」は現代物理学がもたらした「非常識」な問題で、《他者》問題とは本来は無関係だと認識しています。

「他者」の問題は倫理とおおいに関わる重要な問題なのですが、ちょっと今は手がまわりません。

量子論にいかれているせいか、

>「モノ」の世界

がピンとこないのです。「世界モノで出来ているのではなく、出来事(コト)で出来ている。」と確信しているのです。

モノが畢竟はエネルギーと等価であるなら、モノ世界の基本にすえるのはもう時代遅れだと感じてしまうのです。

主観と客観という二項対立も受け入れられません。「間主観性」です。

wikiの方も見ましたが、相互リンクの網の目に、全ては追えません。

ゲーデルの証明が公理主義者たちの夢(数学を完全なものにする)を打ち砕いたのは確かですが、それだけではありません。

計算可能性の問題、人間をアルゴリズムに還元できないという事実の証明が、人間の「自己価値化」への道へ続いていると信じています。

無矛盾で、完全な(あらゆる真の命題を証明できる)体系は、無いのです。

・・

11:たけ(tk) 投稿日:2/20-17:42

ゲーデル以後の公理主義

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http://wiki.fdiary.net/moikomi/?%B8%F8%CD%FD%BC%E7%B5%C1

(4)公理に基づく論理体系は唯一のものではなく、基礎となる公理を入れ換えることにより、複数の体系が可能である。複数の公理系がそれぞれ無矛盾な論理体系として併存することが可能である。

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ということを率直に認めることから新たな地平が始まると思う。

量子論も特定の公理に基づいた、一つの公理系に過ぎない、と認める必要があるだろう。間主観性も一つの公理系だろう。《モノの世界》も一つの公理系だろう。

複数の公理系の間を遍歴することを《視点の移動》と呼んでいる。

『複雑系脳理論』http://www.saiensu.co.jp/magazine-htm/spsk-200202.htm)には「カオス的遍歴」の仕組みが書かれている。それと同じかどうかは分からないが、我々の脳は複数の公理系を理解し、それを行き来することができることができる、らしい、ということは分かる。

12:宮本浩樹 投稿日:2/20-17:53

(4)は、相対主義そのものです。

みとめられません。相対主義から「新たな地平」は開けません。

「相対論」から帰結する「間主観性」は有効な視点であり、相対化をどこまでも許すものでは無いと思います。

[4494へのレス] 無題 投稿者:たけ(tk) 投稿日:2/20-18:39

>「相対論」から帰結する「間主観性」は有効な視点であり、

では、「間主観性」がどのようなモノであるのかお聞きしたい。間主観性の問題は、たけ(tk)の用語では《個体間関係》の一部となる重要なモノだが wiki では着手してない。

13:たけ(tk) 投稿日:2/20-22:57

>「世界モノで出来ているのではなく、出来事(コト)で出来ている。」と確信しているのです。・・主観と客観という二項対立も受け入れられません。

というのは

http://www.affrc.go.jp:8001/dgc/DGCboard/messagesJ/597.html

>「もの」を実体ないし存在物であると規定し、「「こと」はそういう「もの」の集まりに起こる現象であり、作用であり、機能であり、状態である。・・電子は「こと」と見なすことができ、・・

で書かれているような意味で使っているのでしょうか?

だとすると、こんな所(↓)かな?

『コト』は何らかの公理系という《思いこみ》の中に入った《知りつつあるモノ》が《モノ》との接触によって感じて切り取って得た《思いこみ》である。

* 《知りつつあるモノ》は何らかの《思いこみ》の中に入らない限り、《モノの世界》から意味を感じることができない。

14:宮本浩樹 投稿日:2/21-09:21

アインシュタインの一般相対性理論の「一般」とは、異なる座標系の間の変換規則、言い換えれば翻訳可能性をあらわしています。

そこには「主-客」の対立は無く、あらゆる観測者(座標系)が平等であり、しかしそれらの「主観」どうしは変換が可能である。

あの複雑な数式は座標変換の方法をあらわした「間主観性」の表現です。

公理系を恣意的に選択できるわけでは無いのです。

観測結果を最も良く説明でき、無駄な公理が無い。そういう公理系が現在の量子論なのでしょう。

四つの力のうち重力だけが空間のゆがみでしか現せない(相対論)という状況をすっきりさせるために、量子重力論の発見が待たれているのだと思います。

>「もの」を実体ないし存在物であると規定し

存在がなぜ存在し、それはなぜこのように存在するのか?

を問うのに「実在」や「存在物」をまず規定してはいけません。

>《思いこみ》の中に入らない限り

この《思い込み》が、「出来事の集合」をその全ての部分集合の集合に変換する(ベキ集合を作る)はたらきと関連があるのかどうか?

たけ(tk)座標系と宮本座標系の変換規則が見いだせるといいんですが。

15:たけ(tk) 投稿日:2/23-01:12

間主観性の説明で一般相対性原理が出てきたのには面食らったです。

普通は、光速の矛盾を解いたのが特殊相対性原理で、それに加速度と重力の関係を加えたのが一般相対性原理。もしくは、曲率0のニュートン空間に曲率がマイナスな空間やプラスの空間についての統一的理解を与えたモノ、といった、理解だろう。(たけ(tk)は特殊相対性原理については理解してない)。

一般相対性理論の「一般」とは、数値的空間座標の世界についての「一般」であって、たとえば位相幾何学の空間のように数値的な座標軸を持たない空間についての統一的理解を与えるモノではないような気がする。

集合論についてですが、今日は「認識者の集合」というのを考えていた。「認識者」というのはそれ自体を含む集合を認識する者という意味で、「認識する」というのは集合の写像を作る関数であると考えてみた。つまり、写像関数の集合。

で、思ったのだが、《コトバの世界》では元の集合と認識によって作られた集合とは同じモノでありうる。写像だから。

同じ集合だとすると、それぞれの写像関数は元の集合と写像集合とを繋ぐ特異点になる。てな風に考えていたのだが・・

たけ(tk)の認識している《モノの世界》ではそんな風にならないことが分かった。認識者が作り出すのは『元の集合と同じモノ』という《思いこみ》であって、認識者の集合そのものを再生産するなんてできっこない。

そもそも、自己包含集合とかベキ集合は、《モノの世界》では存在し得ないモノのようだ。

>たけ(tk)座標系と宮本座標系の変換規則が見いだせるといいんですが。

これは、たけ(tk)もぜひとも望むことです。

16:宮本浩樹 投稿日:2/23-10:04

>一般相対性原理

アインシュタインのは、原理じゃなく、反証されていない理論ということで相対性理論と呼びたいです。

光速を不変量とした場合の等速運動の記述が「特殊」のほうで、その上で加速度と重力を等価とした場合の運動を空間の歪みで現した記述が「一般」のほうです。

>曲率0のニュートン空間に曲率がマイナスな空間やプラスの空間についての統一的理解を与えた

これはアインシュタインを矮小化する見方でしょう。

ニュートンの絶対座標空間と、そこで流れる絶対時間の両方を否定し、互いに運動する物体それぞれを基準にした座標系を認め、おのおのの座標系どうしの変換規則を記述したものが、一般相対性理論であり、それは「間主観性」の表現そのものです。

ガチガチの絶対空間をぐにゃぐにゃに歪んだものに変え、万人に等しく流れる絶対時間を観測者によって伸びたり縮んだりする「可変量」に変えちゃったのがアインシュタインの仕事だと思います。

R.ペンローズが、そのぐにゃぐにゃにされたけどまだあらゆる出来事の舞台として、所与のものとされている「時空間」が抽象的なネットワークである「ループ」によって構成されたものである事を示し、量子重力理論を完成させ、つつあると理解しているのですが。

空間はスピンのネットワークで構成されており、そこで起こっている出来事が宇宙として存在するのであり、「モノ」が存在しているわけではないのです。

>《モノの世界》

がイメージとして像を結ばないのです。

GCHが集合論とは独立であるためにその真偽が決定不能なのだから、集合論から出てその真偽を決定し、それを意味付けよう。という途方も無い野心から U∞ を主張しています。

集合論そのものについてはあまり考えていない今日この頃です。

17:たけ(tk) 投稿日:2/26-00:50

《モノの世界》ってのはこれ(↓)ですけど・・イメージ湧かないですか?

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http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/library/descartes/med001.html

しかし恐らく、感覺はあまりに小さいもの、あまり遠く離れたものに關しては時として我々を欺くとはいえ同じく感覺から汲まれたものであつても、まつたく疑ひ得ぬ他の多くのものがある。

例えば、いま私が此處に居ること、暖爐のそばに坐つてゐること、冬の服を着てゐること、この紙片を手にしてゐること、その他これに類することのごとき。まことにこの手やこの身體が私のものであるといふことは、いかにして否定され得るであらうか、

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* これを《近傍物理空間》と呼んでおります。

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http://wiki.fdiary.net/moikomi/?%A1%D4%BA%AE%C2%F9%A1%D5

《混濁の世界》をしばらく楽しむと、《知りつつあるモノ》のまわりには《モノの世界》があることに気がつく。ここでの《モノの世界》というのは《知りつつあるモノ》が直接に知ることができる範囲の物理的空間のことである。これを《近傍物理空間》と呼ぶことにする。

《近傍物理空間》というのは《知りつつあるモノ》が目や耳などを通じて「確かにそこにある」と知ることができる範囲の身近な物理空間のことである。

《知りつつあるモノ》《混濁》の中をさまよっても、ふと気がつくと、そこには「いつもの《近傍物理空間》」があることに気がつく。

《近傍物理空間》《混濁の世界》の中で、確信をもって「存在することが確実である」と言うことができる部分である。

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18:宮本浩樹 投稿日:2/26-14:47

>この手やこの身體が私のものであるといふことは、いかにして否定され得るであらうか、

彼は経験しなかったんだろうけど、俺は自分のコントロールを失う経験をしてる。

時間も腕時計の針を眺めてすごしたり、道路を渡るのが怖くて結局引き返したり、傍目には奇妙な行動をとるようになる。

自分が次の瞬間に何をするかわからないんだから、怖い。

死ぬのがまず怖いし、他者に危害を加えるのも怖い。

自分の過去も経験も自分のものだったのかどうか、もうわからなくなる。

>この手やこの身體が私のものである

ってことはそんなに確かな事じゃない。

>確信をもって「存在することが確実である」と言うことができる

インパール攻略作戦をたてた参謀本部長も「成功は確実である、私の身体の底から確信がみなぎってくる。」って言ったらしいよ。

「確実性」についてはもっと年とって、もうこれが最後、ダメもとでかまわないって思えるようになってから考えてみようと思ってるけど、

「存在すると言える」のは、「宇宙」だけだとは言える。

その存在を疑問に付す事が無意味だ。

という意味で「宇宙が存在する。」と言える。

「物理空間」を名目上でも分割しようなんていう試みは却下する。

一般性、普遍性を切実に希求し、例外、隠れた定数、なんかを出来る限り持ち出さないですむ理論を見いだそうとしている「論理学、宇宙論など」スレッドでそんな事は許されない。

19:たけ(tk) 投稿日:2/27-01:49

>俺は自分のコントロールを失う経験をしてる。

>・・・

>自分の過去も経験も自分のものだったのかどうか、もうわからなくなる。

それって、フツーでしょ?

で、フツーは自分でコントロールしようなどという無駄な努力はしないものだ。ブラフマンに身を任せてしまえばよい。

「自分の過去も経験も自分のもの」なんてのは《思いこみ》に過ぎないよ。「自分の過去も経験も自分のもの」と思うのも宇宙原理の現れ。

それが《思いこみ》だと気がつくのも宇宙原理の現れだ。

20:宮本浩樹 投稿日:2/27-10:11

>ブラフマンに身を任せて

>宇宙原理の現れ

ブラフマンも宇宙原理も「it」(文法上の主語)でしかないと解釈するなら たけ(tk)さんのような使い方は出来ない。

>《思いこみ》

についてはますます判らなくなって来たよ・・・。

22 名前:たけ(tk)(レスの王)さん 投稿日:2/27-22:46 No.4634

>ブラフマンも宇宙原理も「it」(文法上の主語)でしかないと解釈するなら

>たけ(tk)さんのような使い方は出来ない。

「文法上の主語」というのは《コトバの世界》での区別だね。

コトバ》というのは《思いこみ》の容器だ、《思いこみ》を指し示す記号だ。ヒト《モノの世界》の中にあり、ヒト《思いこみ》《モノの世界》にある。《思いこみ》の容器である《コトバ》も《モノの世界》の中にある。

とはいっても、このように言うということは《コトバ》による説明だ。《モノの世界》の中の《コトバ》について、《コトバ》で説明することは自己言及のパラドックスをもたらす。

こう考えてみてはどうだろうか?

自己言及のパラドックスというのは、肯定的自己言及は A**2 > 0 の解を求めることである。これには+√A と −√Aの2個の解がある。(「**」は累乗の意味)

上の説明のような《コトバ》の世界に対する否定的自己言及の場合には、実数解はない。しかし、虚数解がある。A**2 < 0 の解は ±√Ai というやつだ。

上の説明のような《コトバの世界》に対する否定的言説の「実」の解は《コトバの世界》に見つけることはできない。その解は《コトバの世界》から見れば《コトバの世界》には存在しない「虚」の解であるようにみえる。つまり、《コトバの世界》からみると、《モノの世界》というのは「虚」の存在のように見える、というわけだ。

しかし、その「虚」の解である《モノの世界》というのは、誰でもが、孤独になった時に身近に見聞きする、自分を取り巻く日常的なモノ世界のことなのだ。

22:宮本浩樹 投稿日:2/28-23:35

虚数については「哲学教室」のほうで書いといた。

「『ことばとモノ』の世界」かぁ。

大和言葉で、日本古来の思想を語る、たけ(tk)さんの試みを応援したいと思います。

* 2006-04-07(金):この本体の掲示板自体がなくなってしまったので、前後の文脈が分からなくなっている。

* 2006-06-02(金):復刻版を発見したので、文脈を復元した。

Last modified:2007/05/12 15:48:11
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