Create  Edit  Diff  FrontPage  Index  Search  Changes  History  Source  RSS  wikifarm  Login

ベルク

都庁が出来た頃、その周辺を歩きました。

都庁を中心にぐるりと、都庁の見える風景として写真に収めた事があります。西新宿は再開発の嵐で、壊れゆく家や空き地の向こうに見える都庁は、怪物のようで。西口に出来たこともあり、東口で商売を営む立場からみても、疎ましい存在でありました。

その頃からホームレスとされる人はいて、街の狭間に佇んでいました。歩道橋や高速の下、地下通路、ビルのシャッターの前等に。新宿の地下道にダンボールハウスが進出したのは、都庁のせいかもしれません。当時彼らの多くは、都庁の建設にも携わっていたのですから。お払い箱になってもなお、都庁のお膝元から離れられなかったのか。

1996年の1月24日、ホームレス強制撤去の時、通路を追い出された彼らは、当たり前のように、インフォメーション前広場に座り込みました。あの場所は、戦後の混乱が残っていて、リースラインが定まっていない場所でもありました。管轄がひとつではないため、責任の所在があいまいなのです。かれらはそれをうまく利用したといえます。

しかし、JRが駅ビルの株を50%以上買占め、じわじわと力を増していき、10年たった今、新宿駅はJRの手の内にあります。この4月から、駅ビルであるマイシティも完全にJRの支配下となりました。40年前に造られた当初の駅ビルは、創設者、地主、量販店主、等が共同で運営していました。途中で西武グループが介入しようとしましたが失敗。JRにのっとられました。10年間は口を出さない約束でしたが、その10年も過ぎました。ここ10年の新宿も変わりましたが、これからはさらに変貌していくでしょう。

ベルクでは、日々何人分かのハウスの量のダンボールが出ます。今でも彼らに使って欲しいくらいです。でも屋根がないと無理だし、以前は昼間彼らが出歩く時は、階段の横等いろんな隙間にたたんでしまっていましたが、そんな場所すらなくなってしまいました。

階段に座れば5秒でガードマンが飛んで来るし、 座れる椅子は置いていない。 新宿ではどんどん立ち止まる空間が消されていきます。 ひたすら目的地に向かって歩くのみ。 行き場のない人はぐるぐると彷徨うしかないのです。

ベルクは最後の個人店です。 大手が参入し、個人店は皆追い出されました。 日本一家賃が高く、権利金も莫大です。 あの場所は今や個人では到底入れない場所です。 ベルクは1970年に名曲喫茶としてオープンしました。 店名はシェーン・ベルクベルクです。 その後、2代目の現店長が1990年にセルフサービスのビア&カフェとしてリニュアルしました。 それから15年。 まさに占拠している気分です。 いつまで占拠し続ける事が出来るのか、 日々戦いです。

ホームレスの彼らの闘いは、ある意味他人事ではなかった気がします。

1997年にベルクで新宿ホームレスの写真展をやりました。(ベルクの黒ファイルの中にその写真がございます)。その時に「モグラびと」の渡辺葉さんが来日していてベルクの写真展を見てくださり、お話しをしたことがあります。写真を見せながら新宿の現状を話すにつれ、彼女は驚きを隠せない様子でした。

1996年の強制撤去直後は、まだダンボールハウスではなく、インフォメ前広場にシートを敷いて、ホームレスが皆で並んで寝ていました。1月の寒い夜なので、周りに透明のビニールを防寒として張り巡らせていました。あるホームレスが言うには、真ん中にお年寄りが、若い人が端っこに寝るんだと。酔っ払ったサラリーマンが寝ているホームレスの頭を蹴っていくからだそうです。他にも、火のついた煙草を投げ入 れられたり、罵声暴言は日常茶飯事でした。それは各地で今でも続いています。

葉さんは、「NYではそんなことは絶対にしない。ホームレスは社会的弱者として認められているので、助けこそはすれ、そんな暴力なんて…。何故日本ではそんな事が…」と嘆きました。私は葉さんがショックを受けていることがショックでした。私には日本のことの方が、当たり前に毎日見る日常でしたから。

ホームレスと一緒に地面に座って、前を歩く人々を眺めると、自分は犬か猫になった気持ちで、時間の流れが変わります。犬や猫なら優しい目で見てくれますが、人間だとそうはいきません。一緒にいる私にもその視線は投げられます。文句を言っていく人もいます。母親が「勉強しないとああなっちゃうわよ」と子供に言い聞かせます。

下から見上げた通行人の顔は最初は恐ろしくもありました。見られる事に慣れてくると、いろいろな表情が窺えます。明らかに嫌悪感を抱いている人もいますが、逆に恐がっている人、不思議そうに眺める人、無関心な人。なんだか分からなくて見ないふりをしている。知らないという無知が恐怖をあおっているようにも感じられます。あれだけの人の目に晒される場所にダンボール村が出来たことは、人々にすれば、今まで見ようとしなかった現実をいきなり突きつけられたという印象でしょう。そしてそこに絵を描いたということが、ダンボールハウスペインティングの面白い所です。

去年の8月に、稲葉さんが中心になって展開した「スマイル・オン・ザ・ブリッジ」という活動の一環で、イギリスの画家ジェフ・リード氏の展覧会をベルクで催しました。彼はホームレスの似顔絵を描いています。イギリス・メキシコ・日本と各国をまわっています。その彼も、何故日本ではあんなにたくさんの人が野宿をしているのか?と驚いていました。イギリスではホームレスと呼ばれる人はいますが、自分の家が ないだけで、彼らはみな施設に入り生活を立て直そうとしています。ジェフが去年まとめたホームレスのレポートがあります。

1990年以前のベルクの写真は少し残っています。1970年のオープン当時は店内が真っ赤な壁で今では想像がつきませんね。脱サラして詩人になった音楽好きの先代が、元々公衆電話が並んでいた場所を、飲食店に造り変えたそうです。

1987年にベルクは駅ビルから撤退しようかという話が出ました。 先代が1980年に亡くなり、その後を現会長が運営していたのですが、時代の波が押し寄せて来ていました。近々駅ビルの大改装が入るという情報があり、そこで改装協力費等数千万円を払って続ける事が出来るのかという選択でした。

店長の井野朋也は二代目とはいえ、撤退話が出るまでは家業に見向きもせず塾講師をしていました。ベルクがなくなるかもしれないと思った時に初めて店の事を考えたそうです。そして一度この場所を離れたら二度と戻れないことにも気づきました。すっぱりとそれまでの仕事を辞めて、ベルクをやることを決意します。そこから関係者全員を説得、会長である母はいきなり参入した放蕩息子の改装案に大反対、パートナー の私も出版社を辞めたくないので受け入れず、二人の弟も味方に引き入れなければならず…。一年かけて全員の気持ちが動き固まりました。飲食業は未経験の井野と私は喫茶学校に通いそこで強力なコンサルタントと出会います。ドトール等のセルフサービスのカフェが出来始めた頃でしたが、チェーン店ならともかく個人店では、よほどうまくやらないとまずセルフは失敗すると断言していた人です。セルフの難しさを知っている人なら逆に成功に繋げられるのではと考え、話しをした所、この場所なら可能性があるかもしれないと言われました。それからさらに一年以上かけて計画を練り、1990年7月にビア&カフェ・ベルクは誕生しました。準備段階で食器は「かっぱ橋」でという打ち合わせになった時、井野と私の脳裏には頭にお皿を乗っけた河童の姿が…そのくらいど素人でした。今でもかっぱ橋に行くとその映像が浮かびます。

飲食店がやりたくてベルクを始めたというより、最初からこの場所を占拠したような気持ちでした。新宿のこの場所に惹かれiたのです。私たちはここで何が出来るのか、それが大事な事でした。ただ何かをやるにはしっかりとした土台作りが必要で、それは飲食店としてのベルクでした。そこで食材探しが始まり、コーヒー・パン・ソーセージ職人たちとの出会いがあって、今のベルクの味になりました。飲食として成功して初めてその先に行けると思いました。

1993年にマイシティの大改装があります。その時にベルク周辺の一角をフードコートにしようという動きがありました。フードコートとはひとつのホールを何店舗かで共有するシステムです。キリンが買収を仕掛けて来たので、キリンの子会社の社長と赤坂で会いました。見るからに狸爺で具体的な提案もなく、手を組む相手とは思えず、断りました。左隣はマーメイドという喫茶店でしたが、そこは買収され、右隣の王様のアイデアは店舗移動になりました。ベルクのせいでフードコート案は挫折、キリンは追い出したその二店舗の敷地をベルクと同じセルフサービスのカフェに改装し、ぶつけてきました。見た目も値段もほぼ同じ、味と人だけ?が違います。うちは敵に対しては燃えるのでパチンコ屋さんで使う大きな看板を出すなどして対抗、のち3年でキリンは撤退しました。大手は諦めるのも早いです。マーメイドが買収される時、従業員はそのまま雇用する約束でしたが、1年程で全員解雇されました。マイシティはフードコート案をあきらめきれず、2002年にB2に実現させます。それが先日2005/4/2 キックオフ会を行ったカフェです。フードコートになる時にB2にあった飲食店はそこに一同にまとめられました。フードコートは遊園地などの閉じられた商業施設向きなので、駅ビルでは難しい業態です。小規模店舗は1年もたたないうちに退店していきました。パチンコ屋さんの看板はクルクル回りチカチカ光り、1日50人の初 回客を呼び込んでくれました。JRから新規配属された営業部長は、マイシティを歌舞伎町化するつもりかと激怒、5年間の交渉の末、店頭に電飾看板を設置する事を条件にクルチカ君は撤去となりました。今は中野北口の繁華亭というラーメン屋さんにお嫁入り。もうクルクル回れないけれど頑張ってます。

ターミナル以外には個人店は各地に点在し、新宿らしさはまだまだ保たれていますのでご安心を。

迫川尚子

Last modified:2008/04/08 16:19:36
Keyword(s):
References:[MLの話題から] [ニューヨーク烈伝]